2010年9月8日水曜日

武光誠「「型」と日本人」、PHP新書

読み始めて、いきなり違和感のある表現にあたった。
がいして欧米人は、身内や友達をたいせつにしても、行きずりの他者にまで細かい気配りをする発想はない。(p.13)
これには異論がある。今の日本人がそうなのではないだろうか。ヨーロッパでは、行きずりの人に対しても親切に道を教えたり、ドアを開けてあげたり、ベビーカーを抱えてあげたり、枚挙に暇がない。振り返って日本ではどうだろうか。知らない人には何があろうと知らん顔。目の前で交通事故が起こってもほとんどアクションを起こす人などない。もちろん、町で先に挙げたような優しさを堂々とする人など非常に少ない。
そのために多くの日本人が、人の気持ちを重んじるか、論理を重んじるかで悩んでいるように思われる。(p.14)
う~ん、どちらも重んじない人が大多数ですよ。その選択というのは、現代の日本人の悩むポイントではないだろう。どういう側面を見てこういうことを著者は書いているのか、かなり最初の著者への波長あわせに苦しむ。
誰もが、電車で老人に席を譲るといった小さな善行を見てすがすがしい気分になる。このような、日本人の通りすがりの他人に対する心暖まる美しい行動に感激する気持ちは、美しい花を愛でる感情に近いものであろう。(p.16)
先ほど書いたように、電車で老人に席を譲る人は、日本は諸外国、とりわけ、ヨーロッパや韓国などに比べてずっと少ない。「いや、それを見ている人の気持ちのことだよ」ということであれば、外国人がそういう場を見て、同じように感じないということだろうか。この、導入部はなかなか共感が難しい。
あまり一般的に認められないことを当たり前のように書くからには、もっと説明がほしいと思う。

追記:そのあとを読み進めようとしましたが、ちょっと怪しく感じるところが多く感じます。たとえば、「縄文人は円形に住居を構えていたから人間すべてが平等と考えていた」というくだり、 私は素人ですから、円形に住居を構えていたからということだけで、人間すべてが平等と考えていたと信じることは困難です。専門的な視点があるのであれば、たとえ素人向きの本であっても、納得のいく説明が必要と思います。全体がこういう論理で書き進めてあるので、理解をしていくのに抵抗があります。

ということで、とりあえず、この本を読破することは断念しました。

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